
「南澤さん、昔と違い、今は仕事優先という人が減りましたね…」―――これは、とある自動車ディーラーの役員の一言でした。
かつて日本には、「年功序列」「終身雇用」「企業別組合」という、いわゆる“三種の神器”がありました。会社に人生を預けるという価値観が広く共有され、会社中心の生き方が美徳とされた時代です。そのエネルギーが高度経済成長を支えたことは、誰もが認めるところでしょう。
しかし現在はどうでしょうか。
終身雇用は事実上崩れ、人材の流動性は高まりました。転職は特別なことではなくなり、キャリアの選択肢も多様化しています。価値観は一方向ではなく、分散しています。
「仕事が最優先」という人もいれば、「仕事は人生の一部」と捉える人もいる。どちらが正しいという話ではありません。時代そのものが変わったのです。
南澤が入社した頃には、すでにその兆しがありました。正直なところ、南澤自身も「会社一筋」という考えではありませんでした。むしろ、プライベートの時間も大切にしたいと考えていました。
音楽が好きで、演奏の時間を確保したい。仕事も重要ですが、それだけが人生ではない―――そう思っていたのです。
入社2~3年目のある月、新型車の発表展示会という重要なイベントがありました。営業にとっては大きな商機です。しかし南澤は、事前に店長へ相談したうえで、演奏会への参加を選びました。
もちろん、ただ休みを願い出たわけではありません。展示会に参加しない分、先行受注を徹底的に取りにいきました。そして準備日の金曜日、新型車4台の受注を報告し、気持ちよく送り出していただいたのです。
もしあのとき、「仕事優先が当然だ」「趣味など論外だ」と一蹴されていたらどうだったでしょうか。おそらく、組織との向き合い方は違っていたはずです。認められたからこそ、「結果で返そう」という覚悟が生まれました。
人は、受け止められたと感じた瞬間に、初めて相手に心を開きます。
逆に、最初から否定されたと感じた瞬間に、心のシャッターは下ります。表面上は従っていても、内面では距離が生まれる。その距離はやがて主体性の低下につながり、やらされ感へと変わります。
挑戦しない、意見を言わない、責任を負わない―――これは組織にとって大きな損失です。
南澤が店長時代に面談した部下の中にも、「家庭を優先したい」「趣味を続けたい」と率直に語る者がいました。
否定するのは簡単です。
受け止めるほうが、実は難しい。
それでも、いったん受け止め、「ではその前提で成果をどう出そうか」と問いかけました。するとどうなったか。
その部下は、それまで以上に時間の使い方を工夫し、自ら営業計画を立て直しました。結果として、以前よりも安定して数字を出せるようになったのです。
価値観を尊重したから甘くなったのではありません。むしろ責任感が強まりました。納得から生まれる行動は、持続します。
古典『論語』に、「己の欲せざる所は、人に施すことなかれ」とあります。否定されることを望む人はいません。だからこそ、まず受け止める。この姿勢が信頼の土台になります。
ただし、認めることは迎合ではありません。
組織には守るべき方向性があります。南澤が意識していたのは、「価値観を尊重しつつ、ゴールは明確に示す」ことでした。押し付ければ従いますが、心は離れる。
納得して寄ってきてもらえれば、自走が始まります。主体性が芽生えれば、成果も安定します。
そして重要なのは、これを個人の力量に任せないことです。
たまたま器の大きい管理職がいれば回る。しかし人が変われば崩れる。それでは再現性がありません。
定期面談の制度設計、傾聴のトレーニング、評価制度との連動。仕組みとして「認める文化」を支える設計が不可欠です。文化は偶然には生まれません。意図して育てるものです。
もし部下を認めない管理職が一人でもいれば、どうなるでしょうか。言いたいことが言えない空気が広がります。挑戦が減ります。心理的安全性が下がり、やがて業績にも影響します。これは精神論ではなく、経営上の現実です。
もしかすると、部下のやる気が出ない原因は、価値観の違いそのものではなく、管理職や上司の受け止め方にあるのかもしれません。
相手を認めるコミュニケーションは、単なる優しさではありません。組織のエネルギーを引き出す、実務的なマネジメントの技術です。
さて、貴社ではどうでしょうか。
部下の価値観を、いったん受け止める管理職は育っていますか。その姿勢を支える仕組みは整っていますか。
「まず認める」という小さな違いが、数年後の組織の景色を変えるかもしれません。今一度、足元のコミュニケーションを見直してみてはいかがでしょうか。
著:南澤博史
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